臨済寺沿革

滴石城戸沢の流れの中で
当寺は万治元年(1658)に開山しているが、享保17年(1732)3月17日及び、昭和26年(1951)5月13日の二度の祝融(火災)により、本堂や過去帳、什物のほとんどを焼失して確とした由緒は残されていない。
本尊と享保以降の過去帳、文政時代の涅槃像軸、廃仏毀釈で移宮された十一面観音がかろうじて歴史を伝えている。
天文9年(1540)8月、南に勢力範囲を求めた水戸南部24代晴政は同族南部高信(26代信直の父)をして岩手郡下で唯一従わぬ滴石に攻め入った。
滴石は滴石城手束(戸塚)左衛門尉(戸沢政安)、長山城長山菜、戸沢城戸沢十郎によって守られていた。彼らはかつて源頼朝に仕えた平衡盛・兼盛を祖とする同族であり、南朝北畠顕信によって陸奥鎮守将軍府が置かれ、南部一族と共に三道(宮城県栗原郡)の合戦に出陣するほどの雄であった。
それにもかかわらず、滴石は南部勢によって火を懸けられ、左衛門尉は討死、長山は隠れて帰農、戸沢は羽州新庄へ落行し(後に新庄藩)滴石は亡びてしまった。
同族に家臣館市久右衛門(出雲)が居り、その時捕えられて三戸に送られた。
その後滴石は斯波詮貞によって「雫石御所」と呼ばれたが、天正14年(1586)九月、再び南部信直によって亡ぼされ南部領となった。
天正20年、豊臣秀吉の一国一城制のもとに雫石城は破却された。その時の雫石の代官は八日町太郎兵衛であり、その下に肝入舘市出雲が居た。舘市は高橋(明治以降は石井姓)を氏として代々繋村の肝入(村長)を務め、臨済寺の檀家である。
戸沢左衛門尉の墓は、滴石城跡二の丸の隅に6・7基あり、臨済寺は戸沢の遺臣の開基と口牌に伝えられている。

再興開山は盛岡東禅寺の住僧
舘市家が代々記録したものに『繋村肝入舘市家留書』があり、当寺の開山についての記述がある。
『万治元戌戊歳(1658)正月一日。比の年、雫石興陽寺(現広養寺)の住僧丹道和尚、少出入に付、(盛岡)報恩寺より御勘当成られ候に付、御訴訟申し添え共、御勘当御免成らざる候に付き、旦那共左様にて候て、他旦那に罷り成る可きと、報恩寺様へ申し上げ候えは、其の段は、其の方等心入り次第に成る可きと仰せ付けられ候に付き、其の節、東禅寺様へ罷り上り、右の訳願い上げ春り候得ば、尤もと思し召し、其の節、臨済寺桃谷和尚、雫石へ遺し候、之に依り林(臨)濟寺の住持桃谷和尚、中興開山成り。覚え比の如くに候。旦那数三百人の時』
昭和十六年発行の『岩手郡誌』ではさらに『滴石氏の滴石城に拠っていた頃、雫石町に天台宗の寺があったが、前の散亡と共に寺も廃亡した。御遺臣であった舘市家や山(津)田家は寺の再興を謀り閉伊郡の東禅寺の高弟桃谷和尚を聘して寺を創建したものと伝えられている。境内1634坪、境内仏堂、観音堂(本尊十一面観世音菩薩)、琰魔堂(十三堂・本尊琰魔王)の二堂がある』と伝えている。
大宝山東禅寺は盛岡五箇寺(盛岡五山)の一つで歴代南部公の菩提寺であり臨済宗妙心寺派の古刹である。寛永十年(1633)遠野の附馬牛より盛岡の北山に移転して来た。
南部藩より二百四拾二石を供されている。桃谷和尚は東禅寺五世陽谷和尚の高足(高弟)であった。